フィクションを愛しながら、この残酷なノンフィクションを生きる - 「フェイクスピア」感想
ネタバレ前
初めてのNODA・MAP。虜になりました
高橋一生の「加代ちゃん」呼びがキュートすぎて何も頭に入ってこない対談
とにかくグラビアが全部最高である
芸劇はどう撮っても映える
追加販売の見切れ席を偶然手に入れ軽い気持ちで見に行った後、リセールに応募しては落選する日々を経て、立見席追加販売(なのかな)とご縁があり、東京千秋楽間近に再度拝見する機会を得ました。多謝。
観る前は何のことやらだったが、観てしまえばこの野田さんのコトバが全てだった。以下ネタバレ。
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あらすじ
mono(高橋一生)が、山の中で目を覚ますところから始まる。「誰にも聞こえない言葉、それは言葉だろうか」
白石加代子が現れ、「女優をやってます、白石加代子です」と挨拶。実は50年間恐山でイタコ見習いをしていた、と語っていたはずの声がいつのまにか録音された音声に変わり、白石加代子も皆来アタイになっている。
皆来のところに、monoと楽(橋爪功)がダブルブッキングしてしまう。とりあえず皆来が口寄せをしようとすると、なぜかmonoと楽になにかが取り憑いたようにシェイクスピアの四大悲劇の一節を演じ始め、困った皆来にはなぜか伝説のイタコ(前田敦子)やシェイクスピア(野田秀樹)が降りてくる。TO BE, OR NOT TO BE !
そのうち「神の使い」だという三日坊主(伊原剛志)とアブラハム(川平慈英)が恐山に現れたり、烏女王(村岡希美)からmonoは神から言葉を盗んだ泥棒だと言われたり、星の王子さま(前田敦子)が現れたり、年に一度のイタコ昇任試験に力を貸してほしいと皆来、オタコ姐さん(村岡希美)から頼まれたり、三日坊主とアブラハムからmonoが抱える「匣」が奪われたり、オタコ姐さんと三日坊主は実は夫婦であることが明かされたり、シェイクスピアの息子だというフェイクスピアも「匣」の中のコトバを聞こうと画策したり、急にラップしたり、奪われた「匣」を白い烏(前田敦子)が取り返してくれたと思ったら山の中に落としたり…
そうこうするうちに種が明かされていき、monoは楽が3歳の頃亡くした父であること、地下鉄職員を引退した楽が電車に飛び込む自殺未遂をしようとしていたこと、そんな楽にコトバの一群を届けるためmonoが恐山へ楽を呼んだことがわかる。
monoの抱える「匣」に残された声はmonoのものなのか。「自分のものだ」と主張するフェイクスピアに対し、星の王子さまを弁護人に、この声は楽に届けるためのものだと不在の裁判長(=裁判鳥)である神へ叫ぶmono。「匣」の声を聞いた面々から、なぜこんなものがマコトノ葉なのかと責め立てられるうちに、monoはパイロットだったときの記憶を取り戻し、「神の使い」のアブラハム、三日坊主、オタコ姐さんも、「匣」=ボイスレコーダーに残されたコトバの一群の中の自分の声を聞いたことで、死者(=使者)になる前の自分を思い出す。
皆来が楽に「お父さんに会わせてあげる」と伝説のイタコを降ろし、舞台上には飛行機機内の様子が再現される。飛行機の尾翼に星の王子さまとシェイクスピアが現れコトバを交わすが、爆発音とともに二人とも姿を消す。ボイスレコーダーに残されたコトバの一群=マコトノ葉が楽に届き、楽はmonoに「わかった、生きるよ」と声をかける。monoが去り、皆来と楽が互いに「頭を上げろ」と言い合ったのち、皆来がイタコの衣装を脱ぐ。女優として客席を向き、「白石加代子です。本日はありがとうございました」と挨拶し、終幕。
「コトバの一群」
は、乗客乗員520人が犠牲になった1985年の日航ジャンボ機墜落事故で、ボイスレコーダーに残された墜落直前のパイロット、副操縦士、航空機関士、客室乗務員の肉声データ。
CVR全文と一部音声- 日本航空123便墜落事故33年目の記録 -
(ちなみにただこの音声は公式に公開されたわけではなく、2000年7月ごろに、事故機の操縦室音声記録装置 (CVR:Cockpit Voice Recorder)を再録したカセットテープが流出したことで一般に知られるようになったものだそう。音声の生データは現在も非公開のままで、2021年3月26日、遺族の一部が国や日航に対しボイスレコーダー・フライトレコーダーの生データの開示を求め東京地裁へ提訴したとのこと。)
高橋一生
ふわふわパーマにオーバーサイズのシルエットがかわいい。シェイクスピアショートコントの女役がべらぼうに上手くて、あの高橋一生を堪能するには何を見たらいいんだろうと気になって仕方がなかった。長尺で見たい。ハムレットで父の亡霊やるときのセルフエコーも器用すぎて思わず笑う。他のお客さんもすごい笑う。to be, or not to be!の白石さんに笑っちゃってた高橋一生が非常に尊。拝。
初回観劇では面白かった唐突に繰り出される「頭を上げろ!/下げろ!」、二回目は背景を知ってしまっているので笑う気にはならなかったのだが、千秋楽近い今日も大きな笑い声が至る所から聞こえたのが意外だった。リピーターがそんなに多くないのかもな。
コトバの一群のシーンに入った瞬間、2階奥の立見席からだと劇場中の空気がぎゅっと締まるのが痛いほど感じられてぞくぞくした。見事な演出のせいもあるけど、あんなに切羽詰まった声をこれまで生きてきた中で聞いたことがあるだろうか。ないかもな、と思える幸運を噛みしめる。
それにしても高橋一生のあの自然さは何なんだろう。前半はとくに特殊な役柄だし、ラストもそのシーンの特性上、演技っぽさが滲み出てもおかしくないと思うのだけど、うっかりお芝居だということも…というのは言い過ぎかもしれないが、そこにいるのが高橋一生だということはすっかり頭から抜け落ちてしまう。演技がうまいってこういうことをいうんだろうな。成河とはまた違うお芝居のうまさ。夏だけどカルテットを見直そう。
シェイクスピアから感じた「祈り」
1回目に観たのは6/10、1ヶ月くらい前か。あのときは、「コトバの一群」に圧倒されて涙を流しながら、しかしこうしてその「コトバの一群」を体験することとなった演劇作品として仕立て上げられた"フィクション"の力こそをひしひしと感じたんだよね
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日
世界でもっとも有名な劇作家シェイクスピアすら、死を眼前にした人間が放つ「ノンフィクション」のコトバの一群には敵わない。シェイクスピアはそのことに気づいてしまっているから、飛行機の尾翼にしがみついて飛行機を止めようとする。
シェイクスピアが危惧するとおり、わたしはコトバの一群に圧倒され、「ノンフィクションほど強いコトバはない」と感じた。でも、同時に、そう示しているものこそ芝居という「フィクション」であることにも気付かされる。まるで野田さんが「してやったり」と笑っているのではないかと思う構造に痺れた記憶がある。
逃れられない「ノンフィクション」=コロナ禍と、その中で散々不要不急と言われ軽視されてきた「フィクション」=エンターテインメントが二重写しのようにも見えたから、フィクションのおかげでやっとこさ生きていられる自分はこの作品に救われたような気がしたんだと思う。フィクションとノンフィクションの間に優劣なんかないでしょ、そんなの当たり前でしょって言ってもらえた気がして。
でも今日はちょっと違った。シェイクスピア/フェイクスピアは相変わらずちょけてて、自分の都合や願望ばっかり主張してるようにも見えるんだけど、その奥に潜んでいる祈りなのか願いなのか、その切実さがヒリヒリ伝わってきた
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日
コトバの一群が訪れる直前、星の王子さまとシェイクスピア(フェイクスピア)のやりとり。星の王子さまは、人間が言葉を持ち続けるかぎり心が失われることはないと訴える。シェイクスピアは「ノンフィクション」の言葉がフィクションより力を持つことを恐れている
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日
ただ、シェイクスピアは全くそんなこと口にはしないんだけど、どうかこれから起こる悲劇を止めることはできないのだろうか、と祈っているようにもみえた このあと起こる悲劇をフィクションにしてしまいたい、という願い
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日
シェイクスピアにはもしかしたら、「ノンフィクションのくせにこんなにひどいことが起こってたまるものか」という運命への憤りか、ノンフィクションに介入できない歯がゆさがあったのかもしれない。
ただひたすらに悲劇が起こらないことを祈りながら、しかし自分にできることはフィクションを生み出すことだけだから、無力であるとわかりつつも尾翼に現れ飛行機を止めようとした、そんな可能性があってもいいな。
雑感
たった一本線が足りなくて鳥になれなかったのが烏。烏は神の使いで、人を裁く神は裁判鳥なんだな。烏は人を監視するがそれだけ。一本線が足りないからそれしかできない。
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日
monoが生者の道を逆走するとき、時計回りとは逆に回って過去に帰っていくんだな。視覚的にもわかりやすい(前回気づかんかったけどね)
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日
四大悲劇→読んだ?悲劇→なんかもにゃもにゃっとして→野田秀樹 になる流れ 腹抱えて笑った なんせ立ってるから腹抱えられるんすよ 前回もあった? 気づかんかったけどだけかー
— しゃこ🎻🎾 (@ue_tk622) 2021年7月6日