我慢は体に悪いので

なにを言うにも口数が多い

居心地ならずっと悪いよ。 - 東京芸術劇場シアターオペラ vol.15 團伊玖磨/歌劇『夕鶴』(新演出) 感想

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natalie.mu

チェルフィッチュ主宰岡田さんのオペラ演出作品。チェルフィッチュも見たことなく、オペラ作品自体ほぼ初体験と、期待と緊張が半々の気持ちで拝見。演者の皆さんの歌声は心が洗われるような美しさなのに、妙に安っぽかったり悪趣味だったり毒々しい色合いが多用されていたり、そのちぐはぐさがどうにも気持ち悪い。

 

もくじ

 

あらすじ

だいたい鶴の恩返し。

村はずれの一軒のあばら家。以前、山の中で傷ついて倒れていた鶴を助けたことのある貧しい与ひょうのもとに、美しいつうがやってくる。つうは与ひょうを喜ばせようとこっそり夜中に一枚の布を織って彼に渡すが、それが都で大評判になったので、金儲けをたくらむ惣どと運ずは与ひょうをそそのかし、つうに次々と布を織らせる。布を織るたびにしだいにやせ衰えていくつう。やがて織っているところを与ひょうにのぞかれ、鶴であることを知られたつうは、もはや人間に姿を変えることもできずに夕空の彼方へ飛び去っていく。(公式HPより)

 

与ひょうはわたしだったのか

チラシやHPに掲載されている岡田さんの言葉が印象的な本作。

「このオペラの演出に携わる者としては、わたしは『夕鶴』という物語を、古き良き時代の日本のノスタルジックな民話であるとはとらえません。『夕鶴』が現代の物語になります。(中略)『夕鶴』は他人事ではありません。『夕鶴』はわたしの物語であり、あなたの物語です。あなたの居心地を悪くする物語です。なぜ『夕鶴』の物語があなたの居心地を悪くするのか?それは、与ひょうはあなただからです。

観客のことをくっきり指差して話すような言葉にわくわくしていたけれど、ついぞ「与ひょうはわたしだ…。」と愕然とすることはなく。その点はちょっと残念だったけど、でも面白かった。

 

あやしいベンチャー野郎「与ひょう」

まず、与ひょうについて。登場した瞬間から伝わる胡散臭さ。いけ好かなさが歩いているといわんばかりの真ん丸のサングラスをかけた与ひょうが、つうのためにと真っ赤なT-falの鍋を温める姿から感じられたのは、妻に寄り添う優しさでなく、鍋を火にかけた程度で「俺は家事をしている」「いい夫だ」と周りにアピールしてそうな嫌らしさ。

さすが公式アカから"のうのうと"と表現されるだけのことはある与ひょうくん、ベンチャーの人達の嫌な感じがよく出ていたように思う(※ベンチャーの人たちが絶対100%嫌な感じであるわけではない)。その場所も、たいして広くもないタワマンのベランダに無理やり人工芝を強いたようでせせこましさを感じるし、セットアップの中に着ている蛍光イエローのシャツも妙に浮いててなんだか気持ち悪い。ちなみに夕鶴のストーリー上与ひょうとつうが暮らすのは田舎であるはずだが、演出を加味すれば都心のように感じられた。観客=与ひょうと思わせるには露悪的に描き過ぎでは?受け入れがたくなっちゃうよ、と感じたけどそのへんの意図は詳しく聞いてみたい。

 

「つう」によるエンパワメント

入場時に配布されるプログラムノートにも記載されているとおり、従来の可哀想な描かれ方ではなく、黒いシックなドレスが似合うカッコいい、強い女性として現れる「つう」。團伊玖磨の歌詞だけを読めば運ずと惣どに唆されお金への執着を増していく与ひょうに対する悲しみを感じるソロも、なるほど新解釈強い怒りを表現する歌唱・演出になっていた。

岡田さんは「与ひょうはあなただ」と言うが、自分の欲求すら自分で自覚できず周りに流されるばかりの与ひょうに自分を投影し"居心地が悪くなる"以上に、つうの美しさや自分の主張をはっきり与ひょうに訴える姿に「わたしもこうあれれば」とエンパワメントされるパワーのほうがよっぽど強かったように思う。

薄給労働者のわたしが置かれている環境は、資本主義、拝金主義に取り憑かれた権力者たちに搾取され疲弊するつうに近いんじゃないか。与ひょうは「つうの布」という資産を手に入れた資本家と捉えられないか。

わたしはリベラルだが資本主義の奴隷であり続けなければ生きていけないので、資本主義に塗れたちぐはぐで悪趣味な世界をハイヒールの靴で蹴り飛ばして、空に羽ばたいていくつうに憧れる。その意味で、ラストシーンは居心地が悪いどころか爽快だ。でも、与ひょうたちとともに残されるわたしたちは、この安っぽくて毒々しい作られた世界で生きていかざるを得ないのだ。居心地なんて、これまでずっと悪かったし、これからもまあまあ悪いんだと思う。はあ~~無理ゲーです。と諦めてしまいたくなる。

 

プログラムノートに、運ずと惣どがやっているのは「中抜き」で今の時代に通じるよね、という記載があったが、くしくもこの公演の翌日は衆議院選挙で、自公が過半数議席を獲得したうえ、改憲勢力の維新を合わせると3分の2を超えてしまった。きっとこの夕鶴をみて岡田さんが意図した意味において「居心地が悪くなる」のは、自民党公明党の支持者じゃないかなーなんて投げやりに思ってしまうのだが、果たしてその人は劇場に来ていたのか。投票日前日、東京芸術劇場コンサートホールで夕鶴をみた人のどれくらいが選挙に行き、どの候補者に、どの政党に票を投じたんだろうか。この夕鶴を見たあとで、自民や公明を選ぶってどんな気持ちなんだろう、と疑問に思う。

今回の選挙結果にげんなりはするが、ギリギリ絶望はせずにいたい。 「#私投票以外もします」のタグが盛り上がったこと、自分もそう呟いたことを忘れないで、少しでも居心地をマシにできるよう、やれることをやっていく。